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[日本代表]西野朗監督率いる個性派集団の誕生

1968年メキシコ五輪銅メダル以来、日本サッカー界は五輪という分厚い壁をこじ開けられずにいた。本大会出場権獲得の一歩手前まで迫った1988年ソウル五輪予選でも、中国にアウェーで勝ちながら、東京・国立競技場でのホームゲームで0-2の完敗を喫した。日本にとって長く苦しい時代が続いたのだ。

92年バルセロナ五輪から23才以下の大会となり、日本も若手強化に乗り出した。しかしバルセロナには出られず、関係者の悲願は96年アトランタ五輪へと持ち越された。

アトランタ五輪世代はJリーグで活躍中の選手が多く、「史上最強」と騒がれた。彼らは94年2月のマレーシア国際トーナメントから始動したわけだが、指揮官には西野朗監督(現G大阪)が就任した。彼が92〜93年まで日本ユース代表監督を務めており、そのまま昇格する形で五輪世代を見ることになったのだ。

その流れもあり、指揮官は川口能活(磐田)、服部年宏(東京V)、伊東輝悦(清水)、城彰二(解説者)らユース代表の主力たちをそっくり引き上げた。さらにアトランタ世代の最高学年である73年生まれの前園真聖(解説者)、小倉隆史(解説者)、山口貴之(鳥栖)らを中核に据えた。前園は当時、ファルカン率いる日本代表にも名を連ねており、実績十分だった。小倉もオランダ・エクセルシオールから名古屋グランパスに復帰し、伸び盛りだった。山口も当時の常勝チーム・ヴェルディ川崎(現東京V)で頭角を現し始めたばかり。こうした人材はチームに不可欠だった。

この頃の日本サッカー界はJクラブより代表の比重が高かった。Jリーグが12チームしかなく、試合日程が緩やかだったこともあり、西野監督は数多くの強化合宿を行うことができた。彼は50人以上の選手を招集し、あらゆる形でテストを繰り返したのだ。

西野朗という人は、今も昔もそうだが、「こうと決めたらテコでも動かない」といったところがある。結果として、自分の考えにあわない選手は切り捨てることになる。アトランタ五輪代表では増田忠俊(当時鹿島、昨季限りで引退)らがその象徴だった。西野監督に意見した途端、2度とお呼びがかからなくなったという。彼は98年に日本代表入りしており、能力は低くなかった。こうした指揮官のキャラクターがアトランタ五輪本大会での選手との衝突につながるのだが…。

いずれにしても94年は選手のテストに費やした。95年に入るとオーストラリア、UAE、マレーシアなどでの親善試合を実施。5月の1次予選はタイとチャイニーズ・タイペイと同組だったが、瑞穂で行われたホームのタイ戦で1-0と苦戦した以外は、問題なく勝利し、最終予選へとコマを進めた。

とはいえ、最終予選の相手は中東の雄・サウジアラビアやUAEなど強豪ばかり。さらなる強化を推し進めなければ、またもアジアの壁に跳ね返される。そんな危機感を抱いた西野監督が採った策は、史上初のベスト8進出を果たした95年ワールドユース(カタール)組を引き上げることだった。その筆頭が中田英寿。95年にベルマーレ平塚入りし、新人ながら司令塔としてチームを掌握していたスケールの大きなMFを、指揮官は10月のオーストラリア遠征で招集する。彼は1次予選で10番を背負った山口のポジションを瞬く間に奪い、前園と中盤のコンビを形成する。2人は公私共に仲良くなり、後に「ラ王」のCMで競演することになるほど。ある意味、この2人が日本を28年ぶりの五輪出場へと導いていくことになるのだ…。(第2回へ続く)

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